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三条の東の果て
すいば67

有名な広重の東海道五十三次の終点、三条大橋の浮世絵です。
お供に日傘を持たせた裕福な商人の娘、茶の湯の盛んな京都ならではの茶筅売。
広重は京都の風俗を細かく描き込んでいます。
ところが、
この絵には広重の犯してしまったミスがあるのですが、お気づきでしょうか?
広重の活躍した江戸後期は空前の旅行ブームで名所や特産物を紹介した書籍が売れに売れていたそうで、そんな機運に乗り「東海道五十三次」は出版された。
臨場感あふれる一連の風景は実際に東海道を旅して描いたものだとされてきた。
しかし最近の研究によると、広重は全行程を歩いたわけではないらしいのです。
「東海道名所図絵」という挿絵入りのガイドブックを参考にして描いており、京に近づくに従って挿絵から抜いた図柄が目立ってくることからも判るようです。


現在の三条大橋は、昭和25年(1950)に改修されたものですが、室町時代には既に簡素な橋が架けられており、秀吉の時代に本格的な橋にしたそうです。
ちなみに、秀吉の時代に橋脚として用いられた石柱が、今も橋の下流側に残されています。



高欄に付けられた擬宝珠には、三条大橋は豊臣秀吉の名により増田長盛が奉行となり天正18年(1590)正月に日本初の石柱橋として架けられたと彫られています。
石柱には「天正17年津國御影七月吉日」と刻まれていることから、現在の神戸市東灘区の花崗岩であることが判ります。
冒頭の問いの答、もうお気づきでしょ。
秀吉が架けて以降、この橋の橋脚はずっと石なのです。
つまり「広重は石の橋脚を木の橋脚にしてしまった」が正解です。
ミスの原因は、参考にしたとされる「東海道名所図絵」の挿絵にあるようです。
挿絵の三条大橋は小さく描かれているため、京都に行ったことのない広重は橋脚を木だと思い込んだようです。
最後に表題の「三条の東の果て」は?
「三条大橋」と答えたいですが、皆さまはここまでの流れで勘が冴えてきているでしょう。
突き当たりになる建物がありません。どんどん進めますよ。
「東海道すごろく」というものをご存知ですよね。

「上がり」は三条大橋。
では「振り出し」は?
そうです、「お江戸日本橋」ですよね!

(参考)
歌川 広重(寛政9年(1797) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)は、江戸末期の浮世絵師。
本名は安藤重右衛門。かつては安藤広重とも呼ばれたが、本姓・号を組み合わせて呼ぶのは不適切で、広重自身もそう名乗ったことはない。
江戸の常火消しの家に生まれ家督を継いだが、その後、浮世絵師となった。
風景を描いた木版画で大人気となり、ゴッホやモネなどの西洋画家にも影響を与えた。
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