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人の世むなし応仁の乱

すいば70


戦の勃発が1467なので、人の世むなし(一の四、六七し)応仁の乱と覚えましたよね。


応仁の乱は、応仁元年に発生し文明9年までの約10年間(1467-1477)に渡る内乱です。

八代将軍足利義政には息子がなく、弟の義視(よしみ)を次期将軍に指名します。

義視は出家の身を還俗までして将軍になる決意をした矢先、義政の正室・日野富子に息子、義尚(よしひさ)が生まれます。

応仁の乱の発端は、細川勝元の推す足利義視山名宗禅が推す足利義尚の後継争いでした。


乱は、文明10年、義尚と義視の和解で、どちらが勝者であるかわからないまま終わります。

九代将軍に義政の息子・義尚が、十代将軍には義視の息子・義稙が就きました。


ここは叡昌山本法寺

我が家から歩いて行けるところです。千家さんの西向かいの大きな日蓮宗本山です。

創建は古いのですが、この地に移転したのは天正十五年(1587)、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備のためです。つまり応仁の乱後一世紀以上経てからの移転です。


長谷川等伯、本阿弥光悦ゆかりの寺、本法寺門前。

かつて、ここを流れていた小川の幅を知ることができます。



応仁の乱の西軍・東軍は、このちっちゃな川を境に始まり大乱となり、京を焼け野原にし、公家も幕府も衰弱させ、戦国時代に突入していったのです。 





昔、堀川寺之内あたりに百々(どど)氏という豪族が住んでおり、この辺りを百々の辻と呼ばれたことから宝(法)鏡寺は、百々御所とも呼ばれていました。

そこには小川(こかわ)という川が流れており、百々橋という小さな橋がありました。

応仁の乱ではこの百々橋に対峙して、川の東に細川勝元と川の西に山名宗全の大群が数度に渡る激戦を繰り広げたところです。


応仁の乱の戦場となった小川に架かっていた百々橋の礎石。


この「小川(こかわ)」は、天下人・豊臣秀吉の都市改造により埋め立てられ、現在の小川(おがわ)通(堀川通の一つ東の通)になりました。




かってここを流れていた小川は北山を源とし西賀茂の正伝寺の傍を流れ、一条あたりで堀川に合流する細い川だったようです。それでも地下には良質の水脈が流れていたようで、埋め立てられてからも名水が湧き出たといわれています。

千家一族が小川通に茶室を営んだのは、その名水を求めたものと考えられています。


写真は小川通を北から南に向かい撮りましたが、写真右手が本法寺、お茶人さんの向かう左が裏千家、突き当りが寺之内通で俵屋吉富。


NHKプレミアムで放映されてた「京都人の密かな愉しみ」で常盤貴子さんが最後にご挨拶されていたお店です。


さいなら 



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