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火の粉舞う〜鞍馬の火祭

すいば72


10月22日は「即位礼正殿の儀の行われる日」で、今年限定の「国民の祝日」です。


京都では例年、京都三大祭「時代祭」の日として知られています。

同じ日の夜、もう一つ趣の違う火祭があり、京都三大奇祭の一つに挙げられます。

(今年は即位礼と重なるため時代祭は26日に変更され、火祭は22日のまま。)


所は鞍馬山麓の鞍馬川沿いにひらけた集落、鞍馬の山門と考えてください。

とにかく狭い川沿いの道は群集で埋まります。

当日5時以降、鞍馬さんの入口より中へは立入禁止になります。

由岐(ゆき)神社が鞍馬寺の山門の中にあるためで、だから祭も「鞍馬の火祭」と呼ぶ。


由岐神社拝殿は重要文化財の割拝殿という様式で、中央に通る石段の上に樹齢800年、樹高53mの御神木大杉を仰ぎ見る。御神木は『大杉さん』と親しまれ心願成就とされる。



祭のおこりは、平安中期、平将門の乱や大地震など動乱や天変地異が相次いだため、天慶3年(940)、世の平安を願い朱雀天皇の詔で内裏に祀る由岐明神を都の北・鞍馬に遷宮することで北の鎮めとした。その時、松明・神道具などを携えた行列が十町(約1Km)に及び、感激した鞍馬の民が由岐明神の霊験と儀式を後世に伝え遺そうと守ってきたのがこの祭。


大松明は、大きな物は重さが100kg前後あるそうです。地元の躑躅の枝(しば)を剪定し藤蔓で束ねて各家が作成するもので、その柴の中に松の割木が豪快に突っ込んであります。


各家には提灯に火が灯され篝火が焚かれ、薪と火消し用の桶が置かれている。

こんな町全体で祭を盛り上げるところも今時珍しくなった。

祇園祭のように屏風や鎧が飾られ格子戸が開放されている。


鞍馬の日暮は山間部なのでとても早い。

今日は天気予報に反して晴天でした。



火祭のあらましは、午後6時「神事にまいらっしゃれ」の合図で各戸に篝火が灯される。


徳利松明を手にした幼児が街道一帯を往来した後、小・中の松明を担いだ小中高生が加わり、最後に大松明を担いだ青年らが現れる。

鞍馬太鼓が打ち鳴らされる中、「さいれーや、さいりょう!」と囃し街道を練り歩く。


この日、貴船より奥は交通規制が敷かれ交通手段が叡山電車のみとなります。

夜八時は大人の男の登場する時間なのに鞍馬駅には帰りの客が大勢。

この人たち、もういいの?って感じ。

警官の誘導に沿ってひたすら歩いて鞍馬駅に辿り着いた?







松明は増え続け、午後8時頃には山門前に百数十本が集まる。

祭りは最高潮に達し、燃え盛る炎がひしめき沿道でさえ熱い。

神輿が据えられた山門前の石段に集まった松明は、「祭礼や最良!」の掛け声も一段と大きくなり、次々と倒され燃え上がる。



大松明を担いでいるときはいいけれど、石段に大勢で立ってる間に火の粉が船頭篭手の襟足から入って火傷するらしい。 






午後9時半頃、太鼓の合図と共に青葉の精進竹に張った注連縄を伐る「注連縄切りの儀」が行われ、松明の祭から神輿の祭へと変わります。神輿の上に鎧武者が乗り、後ろには綱がつけられ、坂や石段から急に降りないように町の乙女達が綱を引きます。

神輿の上に人が乗ること、女性が参加することも祭の異色の一つです。

この綱を引くと安産になると伝わり、多くの若い女性が綱を引きます。

神輿の先の担い棒には足を大の字に上げてぶら下がる二人の若者、これを「チョッペンの儀」といい、かつて鞍馬での成人になる儀式でした。




最後に、神輿はお旅所に戻され、午前0時過ぎに祭りは終わるというものです。




京都の行事は日程が固定されているものが多く、休日と重なる機会は貴重です。

今年は時代祭の日程が変更になったので人が減るかと思ったら例年にも増して人出が多かったと地の人の話。ガイジンさんの多いこと。

しっかし深夜過ぎまで立ちっぱなしで、もうコンナ時間。さすがにくたびれました。

土産は地元の有名なちりめん山椒を^^



悪条件下の画像も悪く文は表現不足なので、名文で描写している小説をご紹介します。


志賀直哉が、大正10年(1921)から翌年にかけ発表した『暗夜行路』です。

主人公・時任謙作が、この祭を友人と見物する後編十七の4ページに渡る詳細な描写です。

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 十月の下旬のある日、謙作は末松、水谷、水谷の友達の久世などと鞍馬に火祭と云うのを見に行った。日の暮れ、京都を出て北へ北へ、幾らかの登りの道を三里程行くと、遠く山の狭がほんのり明かるく、その辺一帯薄く烟の立ちこめているのが眺められた。苔の香を嗅ぎながら冷え冷えとした山気を浴びて行くと、この奥にそう云う夜の祭のある事が不思議に感ぜられた。子供連れ、女連れの見物人が提灯をさげて行く。それを時々自動車が前の森や山の根に強い光を射つけながら追い抜いて行く。山の方からは五位鷺が鳴きながら、飛んで来る、そして行く程に、幽かな燻(いぶ)り臭い匂いがして来た。

 町では家毎、軒先に──と云っても通りが狭いので、道の真中を一列に焚火が並んでいた。大きな木の根や、人の背丈け程ある木切れで三方から囲い、その中に燃えているのが、何か岩間の火を見るような一種の感じがあった。

 焚火の町を出抜けると、稍(やや)広い場所に出た。幅広い石段があって、その上に丹塗の大きい門があった。広場の両側は一杯の見物人で、その中を、褌一つに肩だけ一寸した物を着て、手甲、脚絆、草鞋(わらじ)がけに身を固めた向う鉢巻の若者達が、柴を束ねて藤蔓で巻いた大きな松明を担いで、「ちょうさ、ようさ。──ちょうさ、ようさ」こういう力ン(りきん)だ掛声をしながら、両足を踏張り、右へ左へ踉蹌(よろ)けながら上手に中心を取って歩いている。或る者は踉蹌ける風をして故(わざ)と群衆の前に火を突きつけたり、或る者は家(うち)の軒下にそれを担ぎ込んだりした。火の燃え方が弱くなり、自分の肩も苦しくなると、一ト抱え程あるその松明を不意に肩からはずし、どさりと勢よく地面へ投げ下ろす。同時に藤蔓は撥(はじ)けて柴が開き、火は急に非常な勢いで燃え上がる。若者は汗を拭き、息を入れているが、今度は又別の肩にそれを担ぐ。それも一人では迚(とて)も上げられず、傍の人から助けて貰うのである。  

 この広場を抜け、先きの通りへ入ると、其所(そこ)にはもう焚火はなく、今の松明を担いだ連中が「ちょうさ、ようさ」という掛声をして、狭い所を行き交う。子供は年相応の小さい松明を態(わざ)と重そうに踉蹌けながら担ぎ廻った。町全体が薄く烟り、気持ちのいい温もりが感ぜられる。  

 星の多い、澄み渡った秋空の下で、こう云う火祭を見る心持ちは特別だった。一ト筋の低い軒並の裏は直ぐ深い渓流になっていて、そして他方は又高い山になっていると云うような所では幾ら賑わっていると云っても、その賑かさの中には山の夜の静けさが浸透(しみとお)っていた。これが都会のあの騒がしい祭りより知らぬ者には大変よかった。そして人々も一体に真面目だった。「ちょうさ、ようさ」この掛声のほかは大声を出す者もなく、酒に酔いしれた者も見かけられなかった。しかもそれは総て男だけの祭である。  

 ある所で裸体(はだか)の男が軒下の小さな急流に坐って、眼を閉じ、手を合わせ、長いこと何か口の中で唱えていた。清いつめたそうな水が乳の辺りを波打ちながら流れていた。大きな定紋のついた変に暗い提灯を持った女の児と無地の麻帷子(あさかたびら)を展げて持った女とが軒下に立ってその男のあがるのを待っていた。漸く唱え言を終わると男は立って、流れの端しに揃えてあった下駄を穿いた。帷子を持った女が濡れた体に黙ってそれを着せ掛けた。男は提灯を待たず、下駄を曳きずって直ぐ暗い土間の中へ入って行った。これはこれから山の神輿を担ぎに出る男であるという。  

 こう云う連中が間もなく石段下の広場に大勢集まった。其所には二本の太い竹に高く注連縄が張渡してあって、その注連縄を松明の火で焼切ってからでなければ誰もその石段を登ることができないとの事だ。しかし縄は三間より、もっと高い所にあって、松明を立ててもその火は却々(なかなか)達(とど)きそうにない。沢山の松明がその下に集められる。その辺一帯、火事のように明かるくなり、早くそれの焼切れるのを望み、仰向いている群衆の顔を赤く描き出す。  

 やがて、漸く火が移り、縄が火の粉を散らしながら二つに分かれ落ちると、真先に抜刀(ぬきみ)を振翳した男が非常な勢で石段を駆登って行った。直ぐ群衆は喚声をあげながら、それに続いた。然し上の門にもう一つ、それは低く丁度人の丈より一寸高い位に第二の注連縄が張ってある。先に立った抜刀の男はそれを振翳した儘(まま)駆け抜ける。注連縄は自然に断(き)られる。そして群衆は坂路を奥の院までその儘駆け登るのである。

 「どうだい、もう帰ろうか」と謙作は末松を顧みて云った。  

 「お旅でやるお神楽を見て行こうよ」  

 神楽というのは四五人で担ぐような大きな松明を幾つか、神楽の囃子に合わせて、神輿の囲りを担ぎ廻るのである。

 「大概もう分かったじゃないか。早く帰って寝て置かないと明日の音楽会で参るぜ」    「何時だ──二時半か」時計を見ながら末松が云った。  

 「これで京都へ帰ると丁度夜が明けるかも知れませんよ」と水谷が云った。  

 「それじゃあ、帰るか」末松は未練らしく云った。

 「神輿を下ろす時が却々勇ましいそうだ。坂だから段々早くなるので、太い縄をつけとい

 て、それを女が大勢で逆に引張るのだそうだ。この祭りで女の出るのはそれだけなんだ」  「兎に角帰りましょう。夜が明けてから三里、陽に照らされて歩くのは想いですよ

 と水谷が云った。(注)想いですよ:いかにも気が重いことだ、の意  

 末松も納得した。焚火の町では、来る時、岩間の火のように見えていたのが今は盛んに燃えていた。町を出ると急に山らしい冷気が感ぜられた。四人は時々振返って、明るい山の狭を見た。道は往きより近く思われ、下りで楽でもあったが、矢張り皆は段々疲れて、無口になった。  

 京都へ入る頃は実際水谷が云ったように叡山の後ろから白ら白らと明けて来た。出町の終点で四人は暫く疲れた体を休めた。間もなく一番の電車が来て、それに乗り、謙作だけは丸太町で皆と別れ、北野行きに乗換え、そして秋らしい柔らかい陽ざしの中を漸く衣笠村の家に帰って来た。

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文中、祭リの掛け声を「ちょうさ、ようさ」と表現していますが、現在では明らかに「さいれーや、さいりょう!」と言います。大正時代から現在までの間に掛け声が変化したとは考え難く、作者の記憶違いかと思われます。




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