- 当主
御靈さんの一初
すいば91

「一初」とは「いちはつ」と読み、あやめの中で一番早く咲くのでこう呼ばれるそう。
「あやめ」も「しょうぶ」も漢字で書くと「菖蒲」となりますが別の花です。
杜若、あやめ、菖蒲は見分けがつきにくく、「何れあやめか杜若」と言われるほどです。
水に浸かって咲くのが「杜若」と「花菖蒲」、乾燥地に咲くのが「あやめ」です。
上御霊神社の南水路いっぱいに一初は咲いています。水路にあって水は無しヾ(^▽^笑)ノ

私の若い頃には、神社の南向かいにずっと土塀がありました。

どこのお寺かと思っていたら高島屋の飯田邸でした。そうです、あの高島屋さんです。
その広大なお邸も今は細かく分譲されてしまいました。
そういえばDisneyもGucciも創業者のお身内が残っていませんよね。世の中、変わった。
私の中学は烏丸中学だったので、当時、毎年5月15日は休校でした。御霊祭の日だから。
我が家の氏神さまは今宮神社なので、5月5日の「おいで祭」とその当時の5月15日は「おかえり祭」の両方が休みという認識を持ち、御霊祭は見物したことがない。
現在では5月18日に行われる上御霊神社の御霊祭は洛中で最も古い祭りと言われる。
今年は武漢ウィルスのため、神輿渡御は中止です。


上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)という社名は下御霊神社に対応するもので、正式名を「御靈神社」という。
楼門より西の通を(上)御霊前通と呼び、我が家近くの七野社の南の鳥居まで伸びる。

そもそもは桓武天皇の御代、各地で流行していた疫病は御霊の祟りであるとして、延暦13年(794)5月、早良親王(崇道天皇)の御霊をこの地に祀ったのが始めだとされる。
室町時代の文正2年(1467)1月18日、失脚した管領の畠山政長が当社境内の森に布陣し、そこに畠山義就が攻め寄せて上御霊神社の戦が行われた。二人は従兄弟同志でした。
この戦いは応仁の乱の前哨戦となったことから、ここを「応仁の乱勃発地」とされる。
