- 当主
六の宮の姫君
すいば52
とうとう今日は桜流しの雨になるという予報でしたが雨の前にと思い出かけました。
六孫王神社です。
鳥居をくぐると石の太鼓橋があり盛りを過ぎた数多の桜の中に黄緑色の鬱金桜だけは満開。




姫君は六の宮にすんでいたが,両親と死別。乳母の世話で受領(ずりょう)の息子と結婚したが、夫は父の任地陸奥へいってしまう。貧窮の中で待ち続け、7,8年後に再会した途端に息たえる。
「今昔物語」のこのお話は、芥川竜之介「六の宮の姫君」,菊池寛「六宮姫君」の題材となった物語です。
この辺りが丁度 六の宮だと言われる。
5年経てば戻れると言って男は行ってしまい姫はまた独りになった。
5年経っても戻ってこない夫は、任地で結婚していた。
男からの仕送りも途絶え生活も困窮し、乳母はもう殿は戻ってこないからと、姫に新しい男を紹介しますが、姫は断ります。
「わたしはもう何も入らぬ。生きようとも死なうとも一つ事ぢや。・・・」
9年目の晩秋、男は帰京を果たす。
急ぎ訪れた六の宮は廃墟と化し、この時に至ってようやく男は姫君の追い込まれた状況を否応なしに理解した。翌日から男は姫の安否を尋ねて独り洛中を歩き回る。
夕暮れ時、雨宿りした朱雀門の軒下で、病に伏す女と年老いた尼を見つけ出すのであった。
尼が独り、破れた筵をまといながら不気味なほど痩せ枯れた女を介抱していた。
一目見ただけでも姫君だと知った。
女は破れ 莚の上に寝反りを打つと、苦しそうにこんな歌を詠んだ。
「たまくらのすきまの風もさむかりき、身はならわしのものにざりける」
(以前は隙間風も寒かったが、今はこのようにしていても 平気だ、もう習慣としてならされてしまったから)
男はこの声を聞いた時、思わず姫君の名前を呼んだ。姫君はさすがに枕を起した。が、 男を見るが早いか、何かかすかに叫んだきり、また莚の上に俯伏してしまった。尼は、 ――あの忠実な乳母は、そこへ飛びこんだ男と一しょに、慌てて姫君を抱き起した。 しかし抱き起した顔を見て、乳母は勿論男さえも一層慌てすにはいられなかった。
男は姫を抱きかかえるも、姫はもう臨終の間際で、乳母である尼はその場にいた乞食法師に姫に経を読んでくれと頼みます。
法師は姫を往生させる為に念仏を唱えよというけれど、姫は
「何も、――何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、――暗い風ばかり吹いて参ります る。」
と、うわごとをいうばかりでそのまま死んでしまいました。
その後、朱雀門で女の泣き声がする、といううわさを聞き、ある侍がためしに行ってみると、確かに女のすすり泣く声が聞こえます。侍が刀を抜こうとすると、そこにあの法師が出てきてこういいました。
「あれは極楽も地獄も知らぬ、腑甲斐ない女の魂でござる。御仏を念じておやりなされ。」
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姫君が、目の前の「暗い」ことよりもただ「何も見え」ずに「風ばか り」吹いていることを繰り返し強調している点、「何も見え」ないこと、要するに ビジョンが何も立ち現れないということが、ここでは大きな問題となっているのである。
生きることに対する姫君の情熱そのものの消滅を 語るのではなく、むしろ苦しみからの脱却に喘いで葛藤を繰り返し、遂には自らの生き方 を定めたものの苦しみからは逃れられないという、世間の本来の在り様を明らかにしてい るのである。
ちなみに芥川はこの小説を最後に『今昔物語集』に取材した作品の執筆を止めており、 その後は歴史小説としても目立った作品を残さなかった。
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子供の頃、TVが白黒だった当時、毎週一話完結で文学作品をドラマ化する「テレビ文学館」という番組がありました。
六の宮の姫君は八千草薫さんが演じていて、朱雀門の上空を泣き声だけが空を舞う効果は秀逸でした。
美しすぎる桜も雨に流れていくとき、何か尋常な終わり方をして欲しくない気がします。