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玉の輿の日

すいば47

玉の輿の日〜1月20日

 我が家のすぐ近くに大徳寺がある。

子供の頃の昭和30年代には大徳寺の土塀が壊れていて近所の子供達はそこから寺に出入りしたりして遊んでいた。

いまの大徳寺の土塀は完璧です。

右側の角から二軒目のお家が本日の主役が晩年住まわれたお家ですが、改築されています。


当時、こんなところに似つかわしくない洗練されたご婦人の姿が時折見かけられました。

黒い日傘をさした洋装の女性です。

当時の日本では太陽光を一番反射するのは白で、光を吸収する黒なんぞはもってのほかと信じられていた時代。

今からご紹介する女性の物語は、今でもご本人を知る人が大勢いる、ある女性のお話です。


 寺町の刀剣商・平助の娘・雪は、祇園甲部でお茶屋兼置屋『加藤楼』を経営していた姉の縁で14歳で芸妓となる。源氏名は「雪香」。歌舞に優れ、特に胡弓を得意とした。

店は京都の縄手新橋上ルにある外人専用の 「小野亭」ですが当時外人用は格下とされました。


明治34年(1901)、当時30歳のアメリカ人・ジョージ・デニソン・モルガン(George Denison Morgan. アメリカの大財閥・モルガン商会のJ・P・モルガンの甥)と出会い、求婚されたことから雪の波乱万丈の生涯は始まります。

 モルガンは恋人と別れたばかりの失意の旅行中に日本に立ち寄り、お雪が結婚を承諾するまでの4年間に3度来日した。当時20歳の雪には当時京都帝大に10歳年上の川上俊介(のち浪速銀行東京支店長)という恋人がいたが、この騒動が新聞に掲載されたために破局。


 明治37年(1904)1月20日、当時4万円(現在の8億円相当)という莫大な身請け金によりモルガンに引き取られ、横浜で結婚。結婚は小林米珂(日本に帰化したイギリス人法律家)を媒酌人に横浜領事館で行なわれました。

ジョージとアメリカに渡るが、排日法によりアメリカへの帰化は許可されなかった。

明治38年(1905)、モルガンとともに一時帰国するが、「金に目がくらんだ女」などとマスコミに囃し立てられ、世間の好奇の目は変わらなかった。南禅寺橋にモルガンの別荘があり、日米の旗を掲げ2年ほど暮らした後、渡欧してフランスのパリに移り、現地の社交界で大変な評判を呼ぶ。'Gion'や'Geisyagirl'という言葉を世界的にしたのもこの人である。



大正4年(1915)、34歳のとき、夫ジョージが44歳で心臓麻痺で死去。その後、遺産相続をめぐる夫の一族との裁判に勝ち、60万ドル(当時)という莫大な資産を得るが、米国籍を剥奪され無国籍となるも、フランスで悠々自適の生活を送る。

大正5年(1916)、新しい恋人の陸軍士官で言語学者のサンデュルフ・タンダール(Sandulphe Tandart)とマルセイユに移り同棲し、昭和6年(1931年)、タンダールは心臓麻痺で死去。

以後ニースの別荘で暮らす。

昭和13年(1938年)、第二次世界大戦勃発を前に欧州が不穏化。

家族の世話をするため京都に帰る。戦局が逼迫するとモルガン家からの送金も途絶え、さらに国籍の無くなったままのお雪は特高警察に目を着けられ、軍政下で財産を差し押さえられる。

日本敗戦後、遺産相続権を回復。71歳でキリスト教の洗礼を受け、以後は一カトリック信者として紫野の大徳寺門前の小家に隠棲。昭和38年(1963)、急性肺炎により死去。81歳。

三周忌の昭和40年(1965)にパリ市から姉妹都市である京都市へ「ユキサン」と名付けられた新品種の白いバラが贈られた。

逸話として、身請けを断るつもりで「加藤楼」は牧野省三に相談した。

「そりゃおもしろい、そやな、四、五万円くらい吹いてみい」と冗談めかして牧野は云った。

牧野省三とは「日本映画の父」と呼ばれる人で、放蕩の間に、祇園「加藤楼」の芸妓・お雪と懇意になり、明治34年春、モルガンなる「鷲鼻の毛唐」から身請けの話があると相談を持ちかけられたという。

それから数日後、「四万円の貞操」というセンセーショナルな大見出しで、新聞にお雪身請けの記事が顔写真入りで派手に書き立てられた。

身請けの金額については諸説あるが、当事者が語っておらず、確かな資料はないようだ。

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1951年2月6日、帝劇コミックオペラ(のちに帝劇ミュージカルスと改称される)第1回作品『モルガンお雪』が幕を開けた。脚本は後に東宝の取締役にまでなった菊田一夫。

お雪を演じたのは、宝塚歌劇団在籍のまま異例の外部出演を許された越路吹雪であった。



 初日を迎えてすぐに東京は大雪に見舞われる。 当時の帝劇社長でこの舞台の実質的なプロデューサーでもあった秦豊吉氏は59歳、越路はあと何日かで27歳になろうというところだった。

時代もの現代ものを問わず、秦氏がこだわったのは日本ネタという一点である。

この路線を貫き通せば必ずブロードウェイから買いが入るというのが口癖だったそうだ。

 それにしても芝居のモデルが実在する中、今では差別用語や個人情報の問題など、さぞかし問題がある中での舞台公演は凄すぎます。

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 明治38年(1905)年の1月20日、アメリカの金融財閥モルガン商会の創立者の甥、ジョージ・モルガンが祇園の芸妓・お雪を見初め結婚した。

この日を「玉の輿の日」と呼ぶそうです。

因みにMORGAN財閥は何故日本でモーガンでなくモルガンなのでしょう?

英語を和名に直すとき、そりゃあいささかの無理も出てくるものですが、もしかしたらアメリカでの生活の叶わなかったお雪夫妻が渡仏したのでフランス読みしたものかと思っておりましたが、日本の新聞にも登場していたわけですから、やはり単なる英語の和名なのでしょうね。

フランスに渡ったモルガンお雪から日本でモーガンでなくモルガンになっていた方が京都人としては誇らしいのですがね(*´∀`*)

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