瓢箪から駒

すいば105 今日は土曜日でしたが、ちょっと仕事ができたので会社に行き、帰りに道草しました。 瓢箪がたくさん成っていました。 瓢箪といえば豊臣秀吉ですね。 豊臣家の家紋は「桐紋」ですが、それより前に瓢箪の紋を使っていました。 「千成瓢箪」です。 これは家紋としてではなく「馬印」で、最初は一つだったものを戦に勝つたび増やしていったという伝説もあります。目を引く形として秀吉の気持ちが伝わりますね。 「駒」とは雅語で「馬」のこと。天下人となった秀吉に敬意を評し表題にしてみました。 今年の5月、秀吉が最後に築いた城「京都新城」跡とみられる石垣や堀、金箔瓦が京都御所の発掘調査で初めて見つかりましたね。京を語るに秀吉抜きでは語れないほど秀吉は京都には縁深い人物です。 ここは豊国神社(とよくにじんじゃ)。 神号「豊国大明神」を下賜(かし)された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川家康の命により廃絶となったが、明治天皇の勅命で再興された神社です。 なぜか西向きです。 唐門脇にたくさん下がっているのは瓢箪型の絵馬です。 最初の写真の瓢箪は唐門の向かって左に棚が見えるでしょうか。 そして参道の敷石の途中に左(北)に向かう道がご覧になれます。 そちらへ向かうと方広寺・天台宗の寺です。 大仏殿および大仏は1798年の落雷で共に焼失しています。 が、ここにはもっと有名な歴史的遺物が現存します。 慶長19年(1614)豊臣秀頼が亡き父・秀吉の追善のため造った鐘です。 これは表向きで、豊臣家の財力の消耗を狙った徳川家康が秀頼に勧めて造らせたのです。 石段を上り近くに寄ってみました。 鐘の上部には東福寺の僧

京は遠ても十八里

すいば104 「鯖街道」とは、若狭国・小浜藩領内と京を結ぶいくつかの街道すべての総称です。 ですが、一般に「鯖街道」と言えば、福井県小浜(おばま)市から京都市左京区の出町(でまち)に至る若狭街道を指し、往時は険しい山道でした。 主に魚介類を京へ運搬するための物流ルートで、中でも特に鯖が多かったことから、近年になって鯖街道と呼ばれるようになったようです。 鉄道や自動車が普及する以前、若狭湾で捕れた鯖は行商人に担がれ徒歩で京に運ばれた。 冷凍技術も無く、日本海で捕れた生鯖を塩でしめて運ぶのに丸一日を要したが、京に着く頃にちょうど良い塩加減になり、重宝されたといわれている。 ということで、まずは出町です。 賀茂川と高野川が合流し鴨川となる三角州の辺り。 「出町」とは、江戸の頃から河原町今出川一帯を指す地名でした。 川東の「柳の辻」という地に叡山電車の駅が開業し、駅の名称を「出町柳」としたことから、駅周辺までも出町柳と混同して呼ぶ人ができたのです。 小浜ではよく「京は遠ても十八里」と言われます。 「遠ても」という言葉には「京は近い」という思いが込められているのです。 鯖街道は古く平城宮跡で発掘された木簡から、起源は1200年から約1300年前とされる。 で、現代の鯖街道は京都に比べて観光に控え目な滋賀県・福井県だから空いているし、ほぼ信号機がないので距離の割に着くのが早い。今年は長梅雨が明けたら猛暑のTOP争いです。 まずは午前中しか開いていない市場へ。 蘇洞門巡りでは大門・小門に着岸ならず。 でも人がいたのをしっかり確認した。 帰り道に教えてもらった丸海の小鯛の笹漬けを大樽で。 帰路

大文字 小文字

すいば103 今年は初めて船岡山から大文字を見た。 ここの賑わいは我が家にも声が届くほどなので、一度は登ってみようと思っていた。 近くにありながら半世紀ほど登ったこともなかったので、鞍馬口から登ったのに暗い夜道、懐中電灯も持たず辿り着いたのは結局建勲神社の本殿であった。 いつもなら15分おきに次から次へと五山を順に点灯するのが今年は5分おきだとか居合わせた人に教えてもらいながら待った。 左の高い山が比叡山、右が如意ヶ嶽。 なんとなくは「大」の字に見えますね。 武漢ウィルスは鎮まるところを知らない。 京都の夏の風物詩、お盆に迎えたお精霊(しょらい=先祖の霊)さんを送り出す「大文字の送り火」が、今年は火床を大幅に減らし、文字が浮かび上がらず点になった。 点火する保存会員らの密集を避けるとともに一定数の見物客らの減少も見込み、感染予防を重視し、願い事などを書いた護摩木を燃やす火床の数を大幅に減らした。 表題は大文字の送り火が小規模になったという駄洒落です。 先月の祇園祭はよう知恵を絞って考えやはりましたなぁ。。。 祇園の神さんをなんとかして川を渡ってもらわなあかんと。 今夜の大文字はどないどしたやろ。 密を避けるために五山の火は1ヶ所から6ヶ所までに縮小すると。 密を避けるって見送る人の密どっしゃろか。 点になるにしろ灯るのはおんなじことどっしゃろ。 火ぃが小ぃそなったら見送る人が減るのおっしゃろか。 なんともけったいな結論な気ぃがするのおすけどな。。。 8月8日午後11時くらいから12時くらいまで点灯するという事件がありました。 「大」の文字がおそらくLEDと思われる灯で浮かび上が

保津川下り

すいば102 連日の猛暑 保津川下りに行きました。 トロッコ列車のオープンカーから見える舟は陽除けの屋根付きでした。 もう昼前です。 向こう岸の左のクレーン車横には舟が干してあります。 全長16キロの舟旅です。 乗客は全員日本人、昨年と違い舟は小振り。浅瀬の多い保津川では船底の平らな高瀬舟。 船頭さんは3人。艏(「みよし」船首)に竹棹で浅瀬の底や迫りくる岩を突き放したりする棹さし。そして漕ぎ手。船尾に舵取り。 水嵩の特に多いときや向かい風の強い日には漕ぎ手は二層になり、舵取りも2人となり最大6人もあるそうです。 この日は8月9日で日曜でしたが、月初めは豪雨の影響で運行休止、6日に再開したばかりですが、今度は猛暑で前日よりも水嵩が7cmも低くなってるようでした。 水嵩の多い日は50分ほどで嵐山に着くそうで連なる波が舟全体にかぶるようですが、この日は1時間45分の予定でした。 この辺りは螢の多く飛ぶところや亀やスッポンの多いところです。 船頭さんは3つのパートを持ち回りします。だから途中で2度の交代があります。 軽快な話術やパフォーマンスで絶え間なく亀岡から京都までの道先案内をしてくれますが、棹挿しの妙技など見事です。 船頭さんは見習いの6年間は棹挿しばかりさせられるそうです。 両端がトンネルに挟まれやむなく鉄橋につけた保津峡駅。 昔は飯盒水産をしたところでしたが今やバーベキュー。 左手から合流するのは清滝川。水温が低いそうです。 保津川はクネクネ蛇行しているので橋を6つも潜ります。 ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱⋰ ⋱ 船頭は至極冷淡である。 松を抱く巌(いわお)の

空蝉

すいば101 蝉がミンミンうるさい季節になりました。 気温も芝生の上の風通しの良い百葉箱じゃ 30℃台をキープしていますが絶対40℃超え 一民間人はそう思うこの暑さ。 気づけば庭の桜の枝の下側に蝉の抜け殻 上品に言うと「空蝉(うつせみ)」が。 夜中に脱皮するようです、蝉って。 最初は真っ白なんですよ、どこもかしこも。 『源氏物語』五十四帖の第二帖「帚木」。 貴人たちの女性談義「雨夜の品定め」で知られる。 ははき木の 心をしらで そのはらの 道にあやなく まどひぬるかな 光源氏 かずならぬ 伏屋に生ふる 名のうさに あるにもあらず 消ゆるははき木 空蝉 この帖はそこそこ長編なのに最後のこの2つの和歌にだけ登場する「帚木」という言葉を 帖名に宛てています。 「帚木」は当時伝説として語られていた幻の木のこと。 ほうきのような形をして立っていたので、このような字を当てる。 信濃国(今の長野県)の園原の伏屋(ふせや)という所にあり、遠くから見るとこの木は見えるのだが、近づいて行ってみると姿を消してしまうという不思議な木のことです。 次の帖「空蝉」で、源氏が空蝉の寝床を襲い、ついに捕まえたと思ったところ、空蝉は衣を脱いでスルリといなくなっていた。 「帚木」とは空蝉のことです。 「帚木(=空蝉)の心の中も知らないで、園原の道に迷い込んでしまったのかなあ」とつぶやく源氏に、空蝉は見すぼらしい伏屋に生える帚木に自らを例える。 源氏との身分の違いに我が身の憂さを感じている姿が、伏屋の帚木とダブります。 「帚木」は、我が身を知って中の品としてのプライドを守ろうとする健気な中流の女の姿を映しだしている