三条の西の果て

すいば71 明治32年(1899)に京都鉄道の手によって開通したのが(旧)山陰本線です。 軍港である京都北部の舞鶴めざして建設されますが、保津峡工区があまりの難工事であったため資金が底をつき、国有化されることとなります。 複線化により使われなくなった線路を使用して、観光路線として旧山陰線は1991年トロッコ列車として開業しました。 トロッコ嵯峨駅からトロッコ亀岡駅までの全長7.3㎞を約25分で走る。 平均速度は時速約25km。ちょっと速い自転車くらいの速さです。 だからこそ楽しめる保津川沿いの自然や渓谷美。 路線はトロッコ嵯峨駅を起点とし、嵐山駅から旧山陰線に入る。 旧線は保津川に沿って進み、2つのトンネル、1つの鉄橋を超え、川を右手に見てから、また大小6つのトンネルを抜けたのち、終点トロッコ亀岡駅に着く。 昭和49年(1974)11月30日蒸気機関車運転終了まで、車内への煙の流入を避けるため、トンネルを通過するたび夏でも窓を閉めなければいけなくて暑かったのを思い出します。 途中の車窓から保津川下りの船から手を振る人と何度も出会います。 亀岡に着いたら、今度はこちらが船に乗る番です。 かつて急流と巨岩の続く保津川は、僅かに木材の筏流しが行われていたに過ぎず、丹波からの産物輸送は人馬頼りでした。江戸初期の京都屈指の豪商だった角倉了以が、丹波から京への物流に保津川の舟運を用いることを計画。浅瀬も多々ある保津川に底の平らな高瀬舟を用いた。 明治28年(1885)に観光客を対象とした高瀬舟での川下りが行われるようになり、この風流な保津川下りは夏目漱石の『虞美人草』をはじめ、水上勉や三島

人の世むなし応仁の乱

すいば70 戦の勃発が1467なので、人の世むなし(一の四、六七し)応仁の乱と覚えましたよね。 応仁の乱は、応仁元年に発生し文明9年までの約10年間(1467-1477)に渡る内乱です。 八代将軍足利義政には息子がなく、弟の義視(よしみ)を次期将軍に指名します。 義視は出家の身を還俗までして将軍になる決意をした矢先、義政の正室・日野富子に息子、義尚(よしひさ)が生まれます。 応仁の乱の発端は、細川勝元の推す足利義視と山名宗禅が推す足利義尚の後継争いでした。 乱は、文明10年、義尚と義視の和解で、どちらが勝者であるかわからないまま終わります。 九代将軍に義政の息子・義尚が、十代将軍には義視の息子・義稙が就きました。 ここは叡昌山本法寺。 我が家から歩いて行けるところです。千家さんの西向かいの大きな日蓮宗本山です。 創建は古いのですが、この地に移転したのは天正十五年(1587)、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備のためです。つまり応仁の乱後一世紀以上経てからの移転です。 長谷川等伯、本阿弥光悦ゆかりの寺、本法寺門前。 かつて、ここを流れていた小川の幅を知ることができます。 応仁の乱の西軍・東軍は、このちっちゃな川を境に始まり大乱となり、京を焼け野原にし、公家も幕府も衰弱させ、戦国時代に突入していったのです。 昔、堀川寺之内あたりに百々(どど)氏という豪族が住んでおり、この辺りを百々の辻と呼ばれたことから宝(法)鏡寺は、百々御所とも呼ばれていました。 そこには小川(こかわ)という川が流れており、百々橋という小さな橋がありました。 応仁の乱ではこの百々橋に対峙して、川の東に細川勝元と川

お為

すいば69 最近は急激に冠婚葬祭もこじんまりしてきましたね。 京都ってお祝いにうるさいんですよ。。。 いや、過去形になりつつあります。 突然、結婚報告されてもお祝いを持っていくお日柄もあるしね。 おそらく何の役にも立たないと思うけど、まじで今も残る慣習をご紹介します。 先ず、我が家にあるお祝いで頂戴したものを確認します。 片木(へぎ)台→ある 熨斗     →ある 末廣     →ある 金封     →名前が自分になってない→要る 目録     →こちらの名、先方の父親の名を書くので→要る ということで、金封と目録のみ新調。 金封は裏面左下に自分の名を書く 片木台に乗せる。向って左が末廣、熨斗は右にのしが着いているので右。 次に袱紗。我が家は「猩々(しょうじょう)」裏は家紋。 次に風呂敷。正絹のもの。 最後にもう一枚、苗字と家紋の入ったもの。手前に名前、上が家紋。 この状態のままお渡しします。 たいそうだけど、一世一代のお祝いをしてもらうほうは、その分うれしいかと。。。 そう京都人は考えます^^; 今回はお式に出席いたしませんが。 ちゃんとした、丁寧な対応をしていただきました。 お祝いを戴く方は、片木台に入ったものを全部戴き、塗りの盆の中に「お為(おため)」と書いた祝儀袋にお祝い金額の一割を入れて、風呂敷に包んだ状態で礼を言いお返しします。 帰宅後、一割のお為があれば、ちゃんと確認してもらったなと納得するわけです。 大安の日、お祝いから帰って風呂敷を開くと、、、 金銀の水引の掛かった懐紙の裏に「寿」と書かれた「お為」が祝い金の1割入っていました。 ご丁寧に鶴屋でし

京のへそ

京都人に京都の中心はと尋ねると、大抵「六角堂」という答えが返ってきます。聖徳太子創建の古刹であることより、私には華道家元池坊が住職を務め、いけばな発祥の地としての印象が強いです。

三条の東の果て

すいば67 有名な広重の東海道五十三次の終点、三条大橋の浮世絵です。 お供に日傘を持たせた裕福な商人の娘、茶の湯の盛んな京都ならではの茶筅売。 広重は京都の風俗を細かく描き込んでいます。 ところが、 この絵には広重の犯してしまったミスがあるのですが、お気づきでしょうか? 広重の活躍した江戸後期は空前の旅行ブームで名所や特産物を紹介した書籍が売れに売れていたそうで、そんな機運に乗り「東海道五十三次」は出版された。 臨場感あふれる一連の風景は実際に東海道を旅して描いたものだとされてきた。 しかし最近の研究によると、広重は全行程を歩いたわけではないらしいのです。 「東海道名所図絵」という挿絵入りのガイドブックを参考にして描いており、京に近づくに従って挿絵から抜いた図柄が目立ってくることからも判るようです。 現在の三条大橋は、昭和25年(1950)に改修されたものですが、室町時代には既に簡素な橋が架けられており、秀吉の時代に本格的な橋にしたそうです。 ちなみに、秀吉の時代に橋脚として用いられた石柱が、今も橋の下流側に残されています。 高欄に付けられた擬宝珠には、三条大橋は豊臣秀吉の名により増田長盛が奉行となり天正18年(1590)正月に日本初の石柱橋として架けられたと彫られています。 石柱には「天正17年津國御影七月吉日」と刻まれていることから、現在の神戸市東灘区の花崗岩であることが判ります。 冒頭の問いの答、もうお気づきでしょ。 秀吉が架けて以降、この橋の橋脚はずっと石なのです。 つまり「広重は石の橋脚を木の橋脚にしてしまった」が正解です。 ミスの原因は、参考にしたとされる「東海道名