東山艸堂

すいば32 京都には文人墨客の邸宅が多く残っています。 このアングルの八坂の塔は誰しもが見た記憶のある写真です。 1,700坪の庭園が広がるこの場所は、かつて日本画壇の巨匠竹内栖鳳の私邸「東山艸堂」。 最初の写真は、ここの一室から撮ったものです。 建築された1929年(昭和4年)当時の感性がそのまま残る、アトリエとして最も多くの時間を過ごした特別な空間。手が届きそうな距離に八坂の塔を望む。 でも、入口は高台寺前です。 しかも「東山艸堂」は"THE SODOH HIGASHIYAMA KYOTO"と表記を変え結婚式場とイタリアレストランになっています。 門を通り母屋の前です。 披露宴会場は、元々の雰囲気を壊さないように思いの外、暗めです。 何気に栖鳳画伯の作品もかけられています。 格調高い木の階段なんかは洋風建築ですが基本は和室です。 ま、チャペルは当時はなかったでしょうけどw 竹内栖鳳という日本画家をご紹介いたしましょう。 1864年(元治元年)12月20日 生まれ、1942年(昭和17年8月23日)没の戦前の日本画家。 栖鳳の描く動物は匂いまですると評される稀代の巨匠。 栖鳳は二条城に程近い「亀政」という小料理屋が生家だった。 13歳(明治10年)の時には、四条派の土田英林について絵を習い始め、早くからその非凡さを認められた人物である。 36歳の時、京都市と農商務省の依頼で、パリ万国博覧会の視察とヨーロッパの絵画事情の調査を兼ねて7か国の美術行脚を行い、大きな成果を得て帰国した。 栖鳳は49歳の時、帝室技芸員に任命され、また60歳でフランス国よりレジヨン・ド・ヌール勲章

すいば31 葵祭は、わが国最古の祭です。 上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)の祭で、正式名称を「賀茂祭」と言います。 長く国家行事とされ平安貴族の「祭」はこの祭を指すというほど。 旧暦四月の中酉の日の祭を新暦に当てはめると5月15日になるのだそうです。 祭の飾りに使う12000枚といわれる大量の葵は総て本物という徹底振り。 斎王代はもとより祭儀に携わる人、お道具、牛馬までもに葵 と 桂 の枝をつけることから、葵祭 と呼ばれるようになったそうです。 「葵」は「あふひ」と書き、神に逢う日という意味です。 飛鳥時代に始まり平安遷都後、嵯峨天皇は最愛の姫君・有智子内親王を賀茂の社に奉仕させ一身を神に捧げた内親王を斎王とし賀茂祭になったという。 『源氏物語』の『車争い』はこの祭見物で起きた事件。 「葵の巻」で賀茂の斎院の御禊の行列に加わった光源氏の姿を見ようとひしめく群衆の中、葵の上の一行と六条御息所の一行とが、牛車の置き場所を巡って争いをおこすシーンです。 葵の上は物の怪に憑かれたかのように亡くなる。巷では車争いで辱めを受けた御息所の生霊ではないかと噂が立ち、それを耳にした御息所は苦悶するというお話です。 櫟谷七野社(いちいたにななのやしろ) が斎院跡と伝わる。 約150m四方を占めていたといわれる斎院は, 加茂社(上賀茂神社)の領地でした。 「洛中洛外図」にも七野社は見える。 昨年で打ち切られたのが悔やまれますが、葵祭に先立ち、毎年その年の斎王代が七野社に斎王代になった報告をし献茶されていました。 七野社の由来は、船岡山山麓一帯にあった原野、紫野・禁野・柏野・北

獅子

すいば30 五月五日は祭です。 今宮のお出で祭。 我が家の前を神輿が通ります。 なかでも獅子舞は人気です^^ 昭和30年代の我が家の写真、祖父母も健在でした^^ ✿ฺ ♧ ✿ฺ ♧ ✿ฺ ♧ ✿ฺ ♧✿ฺ ♧✿ฺ 花王と呼ばれる牡丹も盛り。 こんな伝説を思い起こしました。 中国の伝説上の猛禽(もうきん)・獅子にもたった一つ弱点があった。 その体内には『獅子身中 (しししんちゅう)の虫』と呼ばれる虫がいて、寄生している獅子の肉を食い、終には倒してしまうといわれるのだ。 だが、その寄生虫は牡丹の花から滴り落ちる樹液で死ぬ。 だから獅子は、牡丹の花の下にゐる。 『梵網経』というお経のなかに「師子身中の虫、自ら師子の肉を食う」というたとえがあります。師子とは獅子。 仏弟子の中にもこの虫のような者がいて、仏教徒の顔をしながら、実は仏法を破っていると、警告しているのです。 転じて味方でありながら内部から禍をもたらしたり恩を仇で返すこと、これが「獅子身中の虫」という諺になった。 団体やグループなどで味方のような顔をしながら内部から禍を発生させる者、恩を仇で返す者、裏切り者を指す。  百獣の王といわれるライオンでも、内部からの禍はおそろしいということです。  いますよねぇ、日本に住みながら日本人の悪口ばかり言ってる人。。。 最近は何か調べごとのあるときnetで調べることができ、とても便利ですよね。 ところが「唐獅子牡丹」なんてnet検索すると、獅子は牡丹の花を喰って生きているとかデタラメな記述が氾濫しています。 そこで必要になるのが裏付け調査です。 こ

すいば〜沢ノ池

すいば29 京都にはかつて「すいば」という言葉がありました。 「自分たちの行動範囲にある特別な場所」という意味で「すいば」という語を使いました。 自分だけが知っている内証の場所を 信用のおける、自分を本当に理解してくれる人だけに明かす 。素敵な言葉。 京都盆地は南以外のどの方向に向かってクルマを走らせても10分行くと山です。 でもそこは、まだ山と感じない。 あと5分もクルマで進むと完全に山と感じます。 今回のすいばは我が家からクルマを走らせること10分。 鷹ヶ峰から千束の急坂を下ります。 京都随一、傾斜が21°の急坂。 紙屋川に沿って源流に向かいます。 突き当たりにクルマを駐車します。 ここから山を登ります。 「東海自然歩道」の標識から小橋を渡り登り始めます。 10分ほど登ると、眼下に京都市街の絶景が見渡せます。 ほんの少し登ると登りのピークです。あとは下りになります。 道は簡単です。とにかく行き止まりの広場までです。 徒歩は全部で30分ほどです。 すると何という事でしょう!! 想像を遥かに超えるエメラルドグリーンの大きな池です。 池なのに湖のように大きい。 池の水はこんな綺麗な色です。 江戸時代に作られた溜池で、今は使われていないようです。 左に小径があるので少し進むと汀へ出ます。 のどかな絶景です。美し過ぎます。 なんとここ京都市北区です。北へ下りれば高雄です。 市街地のほん近くに、こんな別天地! 旅行もいいですが、近所で「すいば」を見つけるのはもっとよいことです。 教えたくないのが「すいば」。 ここでとっておきの情報を^^ 道の突き当たりの広場に出ると

閻魔堂狂言

すいば28 平安京で朱雀大路は幅85mもあるメインストリートだった。 南北朝の動乱以降、御所がほぼ現在位置に移ったとき朱雀大路は衰退した。 「千本通」の芦山寺(ろうさんじ)に、いまも閻魔大王を本尊とする千本閻魔堂が残され、当時のおどろおどろしい雰囲気をそのまま今に伝える。 この界隈に住む者にとって、昔のゑんま堂は孫の子守りをするおばあちゃん達の溜り場でもあった。父の時もそうだったし自分の時もそうだった。消失前の立派な三門で。 そして盆にはお精霊(しょらい)さんを迎え送る寺でもあるのだが、毎年ゑんま堂狂言というものを楽しみにしていた場所でもある。 演者は近所の素人。台詞のある狂言は京都でもここだけである。 狂言堂火災による衣装や道具の焼失・古参の逝去による上演演目の減少など、幾多の苦難を経て昭和50年に会員6名・三つの演目で再開。 装束に地元西陣織の帯地が使用されていたりもするのが余計に親しみを感じたりもする。 現在では、会員、演目数も増え、「ほうらく割り」も復活。 でも確か昔は盆のころだった記憶が。。。 ご覧いただいたのは子供の頃、大好きだった「土蜘蛛」。 「投巣」を撒き投げかける、という観ていても楽しい派手な演目です。 見せ場たっぷりのスペクタクル、 どうですか? 数十年振りのゑんま堂狂言は子供の頃を懐かしめた。 「道成寺」も観とこっかな。。。 いまでも無料だし、なんと撮影可なところも親しみがあって好きです。 ゑんま堂狂言は題目が「閻魔庁」に始まり「千人切り」で終わると決まっています。 思いきり笑いたい時は、 星空の下に座ろう! ここは、とっておき